三ヶ島葭子について

 明治、大正と生きた葭子の生涯は決して明るいものではなく不運で孤独で幸せの薄い生涯であった。
それだけに短歌そのものに内省的なものが多く沈潜した傾向を持つ。
しかし文学、特に短歌に寄せる情熱は激しく、生涯に作った短歌は全部で5千余首を数える。

 明治19年(1886)当時三ヶ島村字堀内で中氷川神社の神職家に生まれ6歳の時に母を亡くした。
そして小学校高等科から短歌を作り始める。明治35年浦和の埼玉女子師範学校に入学。
その後2年後に肺結核となり3年間は身も心も死んだような少女時代を送る。
小手指村のお寺で療養を続け明治41年、病も癒え東京府下西多摩郡で小学校の教員となる。

翌年短歌雑誌『女子文壇』に投稿の一首が初めて載る。
与謝野晶子に傾倒して、『スバル』や『青鞜』に発表する。
大正に入って島木赤彦の「アララギ」の会員になり活躍する。葭子の結婚は所沢で代々総名主をつとめた倉片家の寛一と出会って結婚をする。
大正3年に長女みなみが誕生する。
大正9年に夫寛一が転勤、葭子は東京にとどまって歌集の作成をする。
翌10年に初めての歌集『吾木香』を出版する。大正13年脳出血が再発して昭和2年3月26日娘みなみに看取られて息をひきとった。
41年間の生涯であった。